ジャズ・ピアニスト、ジャズ教育家。1934年10月静岡生まれ。東京芸術大学中退。作曲を芸大教授、長谷川良夫氏に学ぶ。平岡精二クインテットに参加。フジテレビ小川宏ショーに6年間レギュラー出演。ハーブ・オオタのアレンジャー、コンダクターとしてアメリカ各地で演奏活動を行う。ピエール・カルダンに招かれてパリのエスパス・カルダン劇場に出演する。ハービー・マン、ミロスラフ・ヴィトウス、アニタ・オデイ等と共演。近年はジャズ教育に力を注ぎ、独自のイナモリ・メソッドを開発。楽譜、理論書など120冊以上の著作があり、東京芸術大学、千葉大学、バークリー音楽院、カリフォルニア大学バークレー校、アメリカン・リバー・カレッジなどでも使用されている。また10年以上にわたり山野ビッグバンド・ジャズ・コンテスト審査員を務めた。1991〜96年、IAJE(国際ジャズ教育者協会)日本支部会長を務め、1992年にはIAJEアメリカ本部のAdvisory
Councilに就任。元山梨大学講師。カワイグレード認定審査員2002年より財団法人音楽文化創造音検委員。2015年10月29日81歳にて逝去。
演奏活動
高校生時代、サックス奏者で9歳年上の兄、稲森喜久雄氏の影響でサックス、フルート、クラリネットなどを演奏。編曲も行う。
ピアノは高校1年から学校のオルガンとピアノでバイエルから独学、まもなくピアニストとして活動をはじめる。
1952年(18歳)東京芸術大学入学とともに演奏の場は東京に移る。
1963年(29歳)平岡精二クインテットに入り、6年間在籍。
朝はフジテレビ小川宏ショーにレギュラー出演。昼はキングレコードで録音。
夜は帝国ホテルで演奏と多忙な日々を送る。
1971年5月 ピエール・カルダンの招きでパリのエスパスカルダン劇場に出演。
1972年8月より ハーブ・オオタ・セクステットに参加。ハワイ・アメリカ本土ツアー。
1995〜2001年 国際音楽の日ジャズフェスティバルに出演。
バリオホール、浜松アクトシティ、東京芸術劇場などで演奏。
執筆活動
1974年10月(40歳) 「フェイクポピュラーフルート」(シンコーミュージック)を出版。
1981年までに日音、シンコーミュージックなどから13冊出版。
1982年4月(47歳) 中央アート出版社から「ポピュラー・ピアノ・スタディ第1巻・第2巻」を出版。
1990年 著作数が50冊に達する。
1993年12月 ジェミー・エバーソルドがアメリカで販売のため英文監修し「ジャズ・フレーズ」バイリン
ガル版が完成。
2001年11月 韓国・春秋社から「リードシート奏法Vol.1,2,3」「クラシック・イン・ジャズVol.1」が
翻訳出版され、ソウル、大邱、釜山など5都市で公開講座を行う。
2005年4月 中国・人民音楽社より「クラシック・イン・ジャズVol.1、Vol.2」が出版される。
2011年の「ジャズキッズVol.1、Vol.2」まで、120冊の著書を残された。
稲森音楽教室
渋谷区幡ヶ谷の春山ビルで教室を始められた年は不明だが70,年代半ばと思われる。
1981年(47歳) 第1回稲森音楽教室発表会を開催。カワイミュージックショップ青山のパウゼで開催。
1984年より2001年まで 発表会を赤坂OAGドイツ東洋文化研究協会ホールで開催。
2003年より 発表会を角筈区民ホール、牛込箪笥区民ホール、烏山区民センターホールで開催。
2013年1月末 渋谷区初台に教室を移す。
2013年第31回発表会で“Misty”を演奏されたのが発表会最後のご出演となった。
2015年6月初めに入院されるまで、教室で生徒のレッスンを行われた。
イナモリ・メソッド研究会
1990年、稲森康利先生の公開講座を行うために設立。
25年にわたり、東京、奈良、大阪、神戸、名古屋、富士宮、福岡で講座を開催してきた。
1990年6月 稲森康利公開レッスン+コンサートを赤坂OAGドイツ東洋文化研究協会ホールで開催。
1990年8月 第1回夏期公開講座開催。会場はカワイミュージックショップ青山のパウゼ。
その後、原宿アコスタジオ、榎坂スタジオ、研究会東京本部などで様々な講座を開催。
1993年3月 奈良市に関西支部設立。
2002年1月 名古屋市に中部支部設立。
2003年10月 福岡市に九州支部設立。
2004年11月 神戸市に神戸支部設立。
2005年5月 富士宮市に富士宮支部設立。
国際ジャズ教育者協会(IAJE)
1991年1月(56歳) ワシントンD.C.で開かれたIAJE国際大会において日本支部会長に就任。
6年間会長を務め、毎年1月アメリカ各地で開かれた国際大会にツアーを組んで参加。
1992年1月(57歳) IAJEアドバイサリー・カウンシルに就任。
山野ビッグバンドコンテスト
1992年8月第23回より2002年まで10年にわたり審査員を務めた。